高度成長期、人口の急増を背景に、首都圏、関西圏といった大都市圏をはじめ各地の県庁所在地や中核都市には多くのニュータウン、新興団地が誕生しました。日本の人口は1945年で約7,000万人、その10年後の1955年には9,000万人、そして2010年には1億2,800万人までに達しました。
つまり、日本の人口はわずか65年間で5,800万人、年間では約90万人というペースで増え続けたのです。その間、都市部への人口集中と相まって、毎年100万戸を超える住宅がつくられ続けました。
この急激な人口増加は大工の仕事を急変させました。建築業界の急務は「家不足を起こさないこと」。とにかく数とスピードが求められます。部材は大工の技術を必要としない新建材と呼ばれる工業加工されたものに、大工の技術が不可欠だった構造加工もプレカットに置き換えられました。その結果、大工はどうしても工業化できないサッシ、ドアや下地材、断熱材の取り付けに特化していったのです。
こうした工業化の波によって家一軒にかかる大工の労力は半減しましたが、それでも、人口増加の流れによって需要は増え続け、戦後50万人だった大工就労者数は1980年には93万人まで膨れあがりました。
この流れを追うようにさらに工業化が進み、大工の労力は1/4程度まで省力化され、昔なら半年以上かかった工期が2ヶ月を切るという現場も珍しくなくなっています。それでもなお、大工仕事の工業化は止まることはなく、ついには大工がいらないような家まで登場してきたのです。
こうして日本の建築業界は、戦後の人口爆発の中で、「家不足を生まない」という使命を果たしたわけですが、その一方で、失われたものも少なくはありませんでした。次回はこの住宅の大量需要と大量供給がもたらした「副作用」についてお話ししていきます。